創業者である、初代社長 波多野勇吉は時代の流れによって起業した歯車工場を拡大し、現在の礎を築いた。アイデアマンでもあった勇吉は、戦後は物資不足の中で菜種油に着目し、搾油装置の製造で混乱の時期を生き抜いた。また、斜陽になる自社の事業を、その人脈とバイタリティをもって産業の転換に舵を切った。メーカーであったという矜持を忘れることなく、自社で開発した製品を全国展開することには最後までこだわった。晩年は、次の世代へバトンタッチをしていく流れのなかで、「ねじ」に着目し、主力事業にすべくのちの2代目社長の正義を研修に出向させるなど、現在の弊社の事業の第一歩を踏み出した。

1925年(大正14年)
大阪市西淀川区にて「波多野歯車製作所」の商号で初代 波多野勇吉が創業。修行先での歯車製造技術を元に独立。

1937年(昭和12年)
【株式会社波多野歯車製作所】として法人化。
軍需と共に急成長を遂げ、3年後の昭和15年には 500人の従業員を抱える企業へ。

1940年(昭和15年)
【波多野精機株式会社】へと社名変更。

1944年(昭和19年)
当時の軍部より疎開命令を受け京都府綾部市 (現在の住所)へ疎開。疎開先にて終戦を迎える。

1946年(昭和21年)
菜種油の搾油機・油抽出装置等の製油機械を中心とした設備製造へ事業転換し、戦後の仕事として再開。全国へ販売展開した。※消耗部品の製造を昭和35年頃までは継続。

1950年(昭和25年)
発光器やカメラ部品・量水計のピニオン歯切りの加工にて日東精工殿との取引を開始する。 また、社名を【株式会社波多野製作所】へ変更。

1952年~(昭和27年~)
搾油機の生産が大手の搾油事業者に押され陰りが出る。事業展開を考え、既存の技術である歯車の加工に加え 4ッ爪チャック・ホッピング機の製造、歯車2番面取り機の開発・製造 を行い、次の中核として製造し始める。

1953年~55年(昭和28年~30年頃)
新事業として紡績機械の消耗品である撚糸リング(糸を撚る部品) の製造を開始。【日本リング株式会社】へ変更。

1954年(昭和29年)
日東精工殿が主要取引先企業21社にて、【日東協力会】を創立。 初期の参加企業として入会。※当時は日本リング株式会社にて登録。

1955年 昭和30年頃
撚糸事業が減少し、事業継続を中止。【日本リング株式会社】から 【波多野製作所】へ社名を戻す。搾油機の消耗部品製造等を引き続き 行うも、仕事しては激減の時期であった。 ちょうどその時期、日東精工殿がねじの製造工具であるパンチの 研究・開発を開始し、日本リング跡地工場を開発工場として提供。

1957年~(昭和32年頃)
ねじを製造する設備の試作製造を日東精工殿より依頼され、試作 開発に協力する。 日東精工殿へ工場の一部を貸出、ねじ操業をここで開始。

転換期:ねじ製造会社として